【前書き】
「ロシア」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか。
「寒い」「暗い」「金髪美女」―多くの日本人はこのような表面的な印象を抱いているのではないだろうか。むしろ、ロシアに関心を持つきっかけすらない、と言った方が正確かもしれない。少なくとも筆者自身の実感として、そう感じてきた。
2022年2月、ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始し、世界の注目が集まった。以来、ロシアの印象はさらに悪化したように思う。しかし、ロシアという国は決して、一般的な日本人が抱くような単純なイメージで語り尽くせるものではない。
筆者の好きなロシアの言葉に「Умом Россию не понять(理性ではロシアを理解できない)」がある。19世紀の詩人チュッチェフの詩から生まれたこの言葉は、ロシアとは論理ではなく、感情や魂でしか理解できない国であるという精神を表している。この「理性」と「精神」の対比こそが、「ロシアは一言では理解できない」と言われるゆえんなのだろう。
ヨーロッパからアジアまで約九千キロ、十一の時間帯にまたがる広大な国土を持つロシアは、
独自の民族・言語・宗教を背景に形成された二十一の共和国をはじめ、八十三の構成主体によって成り立つ多民族国家である。そこには多様な文化・信仰・言語が共存し、複雑に交錯している。
西欧と東方のはざまで生まれたこの国は、常に二つの文化や思想の狭間で揺れ動いてきた。中世にはビザンツ帝国から正教を受け入れ、東方正教世界の一員となったが、西欧とも接点を持ち続けた。モンゴルの支配を経て独立したモスクワ公国は、東方的な統治の技術を取り入れつつ、正教信仰に基づく神聖君主制というビザンツ的な理念を受け継いだ。ロシア革命においても、西欧で生まれたマルクス主義はロシアの精神風土の中で独自の発展を遂げている。
この矛盾と多様性の共存こそがロシアの魅力であり、同時に理解の難しさでもある。
本書の舞台であるサンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって「ヨーロッパへの窓」として築かれた都市である。約九十の運河と八百を超える橋を持ち、「北のヴェネツィア」と称されるほど美しい。淡いパステルカラーの街並みは北欧的な優美さを漂わせ、エルミタージュ美術館やマリインスキー劇場など、芸術と歴史を兼ね備えた建築が街に息づいている。
だがこの街は、同時にロシア革命の震源地でもあった。帝政が崩壊し、世界初の社会主義国家が誕生した場所として、歴史的にも極めて重要である。人々の苦悩や激情、理想の物語が街全体に刻み込まれており、都市空間そのものが歴史的な遺産として当時の記憶を辿ることができる装置として機能している。
本書は、「芸術の都」としての美しさだけでなく、「革命の都」としてのサンクトペテルブルクを歩くためのガイドである。
ロシア革命の知識がない人にも理解しやすいよう、当時の時代背景をできる限り丁寧に描いた。断言してよいが、ロシア革命に関わる場所のみに焦点を当てて執筆された書籍は、他に存在しないだろう。
せっかく本書を手に取ってくれた読者には、ぜひ「革命の都」としての側面を感じながらサンクトペテルブルクを歩いてほしい。きっと旅はより深みを増し、記憶に残るものとなるはずだ。
もしこの本を通じて、一人でもこの街に興味を持ち、実際に訪れてくれたなら、そのときはウォッカで乾杯しよう。